薩摩の在番奉行や中国の冊封使をもてなすため、1677年に首里崎山町に造営されましたが、沖縄戦で焼失しました。 主に迎賓館のような役割を果たしていました。文化人を集めて、歌三線や琉球舞踊、組踊、能、謡、茶道、華道、和歌、琉歌、空手などを披露させ、国王自ら照覧したり、民と一緒にご覧になったとも言われています。